『紅白歌合戦』の今後を考える!
『紅白歌合戦』の誕生
老若男女を問わず誰もが口ずさむ曲があり、それを歌う歌手が大勢いた時代である。
家族や一族郎党が揃って画面に見入り、その1年を振り返っていたのが『紅白』だったのである。
合戦という色彩も強い。勝負の行方を家族で予想しあい、固唾をのんで結果を待っていた。
一方、『紅白』そのものが誕生した時の番組編成は全盛期のそれとはかなり違っていたようである。
『紅白』の原形となった番組の誕生は、1945年(昭和20年)の大晦日に遡る。
番組名は『紅白音楽試合』であり、「合戦」という言葉は使われていない。
GHQ(連合国軍最高司令部)が「合戦(battle=戦闘)という言葉の使用を認めなかったのだ。
ちなみに、「紅白」に分かれての対抗試合というネーミングは、番組のディレクターが剣道部の出身であり、“剣道の紅白試合”になぞらえたという。“チコちゃん”はこのことを知っていたのだ。
紅組の司会は水の江滝子、白組は古川ロッパである。懐かしい名前である。
当時は、「音楽」試合であって「歌」合戦ではない。音楽の色々なジャンル別に試合が行われている。
例えば、バンド演奏による「長崎物語」とマンドリンによる「サンタルチア」の対戦などが組まれた。
また、和楽器の対戦もあって、同じ「六段」を紅組が箏(こと)、白組が尺八によって奏でた。
面白いことに「童謡」の対決もあって、人気の童謡歌手であった川田正子(写真)が「汽車ポッポ」を歌っている。そもそも、この曲は戦時童謡であったのだが一部歌詞を変えて歌われた。
例えば、「兵隊さんを乗せて」のところは、「僕らを乗せて」に変わっている。
この番組は、「新時代に相応しい音楽番組を作ろう」という発想から生まれたという。
“スピード重視、男女別、スポーツ性(試合形式)”という娯楽の3要素を取り入れた番組であった。
この番組は大きな反響を呼んだようであるが、番組はこの年だけで終了する。
当時は同じ番組を毎年続けるという発想はなく、そんなことをするのは“能なし”だと思われていた。
『紅白』が今に近い形になって、正式に誕生するのが1951年(昭和26年)の1月3日でありお正月の番組であった。まだ、ラジオ放送の時代である。また、番組名は、『紅白歌合戦』であり、「第一回」とは謳われていない。この時も一回だけの番組として構想されたのだ。
大晦日に番組が移り、現在の形に近くなったのは1953年(昭和28年)の第4回からである。
この年からテレビ放送が始まったため、『紅白』もテレビでも放映されるようになった。