「感謝の心」を伝えたい
「年を取る」ことと「生きている」ことは違います。60歳になった時に勤めていた会社に辞表を提出しました。翌年2月からは束縛する者のない全くの自由人になりました。
すり減り壊れかかった身体を修復するのは容易ではありませんでした。そこから這い上がったのは太宰治の言葉があったからかもしれません。「選ばれてあることの恍惚と不安と我にあり」若い時からヴェルレーヌの詩の一節が私の心の片隅を占めていました。
生きて来た人生を振り返り懐かしく思うという芸当が私には出来ません。60歳の私は相変わらず机の周りが雑然としたままの船出だったと思います。自然観察を通じて植物の絵を描きました。男の料理教室に通って鯵を三枚に卸すことも知りました。園田幸朗、蓼沼誠一というお二人の先生方と出逢えたことこそ60歳台の大切な宝物だと思います。
確かに生きて行く上で大切なものは人との出会いだということを実感した半生でした。人生100年時代を迎えたと言っても間違いなく後半になっています。
70歳の時に第5詩集「白銀比」を上梓しました。「賦頌風雅」に続く「比」であり残る「興」で六義を全うすることが出来ます。30歳の時に「惜春賦」を世に問うたところからの壮大な計画が完成することになります。
私が詩集を上梓し続けたのは20台の終わり頃「一生に一冊」の本を出したいと友人の熊倉正宏さんに話し札幌時代に同僚の藤田忠春さんから背中を押されたことから出発したものです。いつの間にか50年の歳月が経とうとしています。
何となく若い時分には長生き出来そうもないと思っていました。比較的短命だった第2次世界大戦の後遺症のようなものかもしれません。
22歳で当時も今でも変わらず一流と呼ばれる会社に就職しました。受験競争に敗れ続けた私は浪人せずに私立大学の奨学生の道を選びます。自信たっぷりでの就職には様々な方の後押しがあったと思います。
勧められて生命保険に入る時も60歳は遥か遠くに見えました。結婚して家族を構える前だったこともあり経済的基盤のことだけ考えれば良いと思っていました。
ところが皮肉なもので定年の55歳になる少し前に損害保険会社で民間の介護保険を担当することになりました。なんと65歳以上の高齢者が相手のビジネスです。55歳に会社を定年退職した私は平成11年に民間の福祉用具販売会社に就職しました。平成12年に公的な介護保険が誕生する前夜でした。それから20年余が経過しました。
老人福祉の分野が「措置から保険へ」という歴史的な制度設計がありました。介護保険についての議論を経て福祉用具のうちベッドや車イスはレンタルで対応することになりました。共同購入により生き残りをかける福祉用具業界の一員として活躍した時期でした。
22歳で最初に就職した会社の転勤で札幌に住みました。その時期に初めて知らない人と家族だけの暮らしをしました。30歳の春に生まれた次男がダウン症を持って生まれたことから神奈川県鎌倉市に移住することになりました。次男が12歳の頃に地元で知的障害と向き合う人生を選ぶことになりました。様々な人との出会いがあり、社会福祉法人鎌倉市社会福祉協議会との縁が出来ました。また60歳になって日本ダウン症協会の評議員に就任し現在の公益財団法人専務理事になります。東京学芸大学の菅野敦先生との出会いから日本ダウン会議を開催し日本ダウン症学会設立にもつながりました。